麻雀漫画は現実の麻雀の参考足りうるのか
はてさて、2023年も1/3が終わり、あるいはその連続で日々は過ぎ去るのだろうと人生の白秋を感じる今日この頃。すべからく何かしらのハイライトがあるべきだとは思いこそすれ、その開拓に自ずから乗り出したいかと言われれば、そこまでの意欲も湧かずに日々が過ぎる。これを五月病と言うものかと自己完結してしまえばある種纏まりが良く感じるが、五月病自体は環境変化などに起因するストレス性のものであるので、変化を起こしてない自分の場合は「怠惰」の一言で唾棄される事象なのだろう。
まぁそんな吐露を繰り返してもしょうがないのでそろそろ本題。
皆さんは麻雀漫画を読んだことがあるだろうか。年配の世代からすれば漫画で何が得られるねんといった考えの人も勿論少なからずいるだろうし、逆に若い世代からすれば漫画で麻雀の存在を知った層もいることだろう。しかしながら、麻雀を始める為の役割を担うことこそあれ、その実力を支援するロイター板の役割を果たすことがどれほどあるのだろうか。今回はそれを考えていきたい。
そもそも世に麻雀漫画は枚挙に暇がない数刊行されているが、そのうちいくらかはは登場人物の日常・非日常の描画の過程でエッセンスとして麻雀が行われている漫画である。極端な例で言えば【こちら葛飾区亀有公園前派出所】を麻雀漫画だと認識している人なんていないだろうという話である。あるいは麻雀は割と行われているが、そこは漫画の本質と世界観の整合性の前では淘汰できる作品。志名坂高次の【麻雀星取伝説 BW ビューティフルワールド】が最たる例で、作者の抜群のぶっ飛び具合が惜しげもなく投入されている名作でこれを最初に近代麻雀で読んだ時は正直『いや麻雀とかそういう次元じゃねぇ』くらいの衝撃は覚えた。
ネックなのが麻雀は作品の脊椎なのだが主人公(あるいはその半荘・局、その回の主役)の手牌進行が優先されすぎるあまり他家の打牌に意志を感じ無さすぎる、つまりはご都合主義が過ぎる漫画である。
例えば【麻雀飛龍伝説 天牌】がそれである。沖本瞬をはじめとする主要キャラは四人打ちで『んなことあるかい』レベルのめくるめく向聴数変化を起こし、それに対して他家のモブは唐突に意図不明な打牌を行い勿論主役が和了る。強キャラで囲んだ卓では個々人の意図だけ表現された後に最終的には話の都合上ご尤もな人物が自摸和了る。待て待てそれを言い出したら大概の漫画はそうじゃないかって話にはなりそうなのだが、私が言いたいのは、最終的に誰が和了るだとかそういった部分は漫画の構成上当然あって然るべきなのだが、その過程が結果から逆算されたが如く描かれることに疑問があるという部分だ。影村遼の打北の放銃に対して入星・三國・黒沢の強面3人から「そこに北はあるんだよ」「俺達はその場所に北が存在するために摸打を繰り返してるんだ」「せっかく3人で作り上げた麻雀の血流が坊や1人で止まってるってことを自覚しな」という『いや思うんは自由やけどわざわざ人に凄んで口に出すほどの価値観か?』的なイチャモンを受け、さらに黒沢から「三國さんが言いたいのは次にツモってくる北を無駄にするなってことだ」とまるで確定情報かの如く言われてしまい「見るな...見るんじゃない。そこに北なんかあるはずがねぇ...。ハッタリに乗せられたらますます深い蟻地獄!」と、万一当たっていた場合にメンタルが削られる部分まで正論込みで分かっていつつも確認してしまい、しかもそこに北がいたのに対して黒沢が「みすみすのテンパイを逃し逆放銃。よっぽど隆のほうが腕は上だぜ」と放銃した人間に対して無慈悲に追い打ちをかけ「次巡のツモが北なんて結果論じゃないっすか!」と変わらずど正論を語る影村に入星が「お前にとっては結果論でも少なくとも俺達3人には共通の見解だ」と積込みかガン牌で無いと通らない理論でフィニッシュブロー。『...いやこの漫画がオモロい言うんは分かるねんけどなんでマトモなこと言うてる影村殴られてるんか全く分からへんwww』状態である。これで次の自摸が北じゃないならオッサン3人顔真っ赤なはずなのだが当然そこに北はいるし、オッサン3人はドヤ顔のまま若者に凄む。文章にしながら私自身こんな理不尽な殴られ方が世の中にあるのかと自嘲せずにはいられない。何度も言うが漫画が面白いのは否定しないし天牌で麻雀を覚えるのも1つのルートとして大いにあることだと思うが、これで麻雀が上達するとも思えないし、冷静に考えてモラルハザードを起こした麻雀打ちが育つだけに思える。
あるいは【咲-saki-】にしても同じことが言える。というか咲と「ムダヅモ無き改革」は私の中で麻雀プロレス(麻雀牌を使ってるだけの格闘技的認識)を脱して無いので、そもそも麻雀漫画だと思っていないまであるのだが...。序盤に関しては主人公を除く各キャラクターが基本的にはデジタルな打ち方である。その中で東場だけ異常に強い片岡優希や、あえてセオリーを無視して悪形に手を作る竹井久が光るのだが、如何せん主人公の宮永咲が感性に基づいた打ち手であり、なおかつ得意技が嶺上開花というこれまた『偶然役が得意とは』みたいなことになってしまっているのでパワーバランスが崩壊してしまい、途中からは『どうせ咲が嶺上で和了るんだろ』というまぁ漫画お決まりの流れが確定的になってしまっている。勿論それを言い出したら【むこうぶち 高レート裏麻雀列伝】にしても結局傀が御無礼ラッシュで勝ち切るんだろうとはなるし漫画なんてそもそもそういうモンなのだが、むこうぶちにおいては他家がその思惑に基づいて正着打を行うが故に傀が追い込まれることが多々あり、同様にその意図が作者と闘牌監修の間で喧嘩をしていないが故にそこに出来すぎな部分こそあれ、不自然な部分は多くない。というか私が言いたいのは咲において主人公が所属する「清澄高校」のキャラクターの中で既にバランスが取れていない以上他のキャラが立たない点である。この点において、キャラごとのスキルが全体像の中で一長一短あって個性足り得た【兎-野生の闘牌-】とは大きく違う。しかも、作中の長野県大会において、他校のキャラにも例えば「風越女子高校」キャプテンの福路美穂子は他家の理牌の癖や視線移動から手牌構成を見切るという現実的なテクニックを用いており、それらは事実リアルの麻雀においても必要とされる技術である。が、この作品はそれら技巧派のキャラを見切り超人雀士側に舵を取ることになる。決勝では「龍門渕高校」の天江衣が同じく海底撈月を得意とする超人キャラとしてぶつけられており、ここからこの作品はキン肉マンよろしく「超人オリンピック」の様相を呈することになる。長野県大会決勝での和了形が全て古役であること(それぞれ二索搶槓、一筒摸月、風花雪月、花鳥風月、五門斉、一色四順、五筒開花)ことは以前書いたと思うが、私がこの作品唯一ニヤつける部分である。風越の池田華菜や「鶴賀学園高等部」の加治木ゆみが常人の摸打で手牌構成を仕上げていくのが可哀想になるほどに咲と衣の超人戦が繰り広げられる。うーんここから使える戦術を見出すのは難しいと言わざるを得ない。まぁこの漫画を読む分に関して言えばぶっちゃけ麻雀以外に面白いエピソードがある。清澄の染谷まこの実家が雀荘ということで主人公たちがバイトに走る描写があるのだが、アニメ化の際に雀荘に高校生が立ち入ってバイトをするのはまずいとの意見から麻雀もできる喫茶店に変更になったりしている(雀荘に高校生が立ち入るのは風営法第一条の違反、労働が22時以降に及ぶ場合は同様に労働基準法第六十一条違反である、確か)。いやぶっちゃけ『二次元の創作物なんだからいいじゃん』って話ではあるんだが、日本の難しい部分が垣間見える話である。
とまぁここまで参考になり得ない(いや勿論参考になるって人も0じゃないかも知れないけれど)漫画を論ったのだけれども、当然ながら参考になる漫画もある。【打姫オバカミーコ】を筆頭に片山まさゆき漫画がそれである。筆者本人が麻雀を嗜むというのもあるが、何より他の漫画家と違い空気感や世界観を描きたいのではなく片山本人が「麻雀を描きたい」というのが一番の違いであろう。前述のむこうぶちでも話したが、作者が描きたいものが世界観である場合にそのアクセサリーとして麻雀が使われてしまうとどうしてもその描写はおざなりに成り得てしまう。そういった際に闘牌監修が漫画に付いているかどうかが、漫画内での麻雀の質を大きく上下させるのは想像に難くない。
唐突ではあるが、最後に私の好きな麻雀漫画である【麻雀蜃気楼】から名言を引用したい。
「ツイてるとは自分を謙遜する言葉で、ツイてないとは相手を同情する言葉だろ。決して逆の使い方はしない!!」
すなわち、自分の和了りを「ツイてる」と表現することで他家との円満な距離を維持出来得るし、相手の放銃に「ツイてない」と表現することで、しょうが無いから切り替えましょうと思ってもらって同様に円満な距離を維持できるという話である。ここで言う逆の使い方というのは、自分自身の放銃や被弾を「ツイてない」と言ってしまえばそれは実力は劣っていないという高慢な考えが見え隠れして波風を立てるし、他家の和了りに「ツイてる」と言ってしまえば実力は劣っているのに運が先行して和了りを拾ったというニュアンスが見え隠れして同じく波風を立てるという話だ。後者2つは現実の麻雀でも言う客は少なからず存在するし、当然のように場に角は立つ。何よりこれが30年前の漫画で描かれる程に昔からあった話だというのには笑うしかないが、前者2つが円満な関係と円滑な卓進行をもたらすのも同様に想像し得る。必要以上に謙る必要は無いし、卓に付いた以上年齢の差や上下関係は雀力やそれによってもたらされる結果の前では唾棄すべきだとも極論思うが、「和了らせていただいたから、和了られた側の人間にも一定の配慮を」という謙虚さは、麻雀に限らず持ち続けたいものである。