禍福は糾える縄の如し

2021年10月04日

ハテサテ、21年ももう既にその四分の三が終わってしまったわけで、今年に入って何が入ったかを考えると吉兆は余り浮かばない割に悪事はちぎって投げるくらいは簡単に想起出来てしまう。あるいは自分自身が前進的な楽観主義を投棄してしまう程に白秋を謳歌してしまう齢になってしまったのかも知れない。と言うかそもそも日本の元号が令和になってからというもの、めでたいニュースがいくつあっただろうと悲観的になってしまう今日この頃。

とは言えそんな話は平成の頭にもあったし昭和の頭にもあった話である。人類がその叡智を集めて文明を進化させていっても本質的なところでは結局同じことを繰り返すのである。4500年前に建造されたエジプトのピラミッドの壁には「最近の若者は...」と現代にも通じる老人の悲哀が刻まれているし、600年前の書物である徒然草においては吉田兼好が「最近は難しい字を名前に使う若者が多いが、頭の悪さを露呈するだけなので辞めたほうが良い」とキラキラネームがどうこうと騒がれる日本人の本質は何百年も前から何一つ変わっていないことを示してくれている。つまりは歴史は繰り返す、である。

が、長いスパンで見た時に何一つ良いことがなかった時代の方が少ないし、令和の時代が続く中では微笑ましくめでたい出来事もこれから増えることだろう。となれば、畏くも今上陛下のご健勝を益々祈り奉らんではない。

さて、表題の通り、縄が1本1本の糸がそれぞれ捩られ互いに組み合って出来ているように良いこと悪いこともそれぞれその時々で起こるものだという意味で「禍福は糾える縄の如し」という言葉がある。麻雀においても「今日は悪いことばかりだ」と思い込むのは容易いがあるいは発生している事象すべてが目に見え耳に聴こえる訳では無い。自分の和了りに対して他家が毎回持っていた枚数を教えてくれるのであれば、ある瞬間ツイていることが自認出来ることも当然あるだろうが、そんな他家ばかりでは無い。そして、自分がツイて無いと思える情報は得てして自分の目に見える情報だけで処理されていることの方が多いものだ。

或いは日常生活においても往々にして同様である。つまりは解釈次第・気持ち次第なのであって、同じことを前進的に捉えるか後退的に捉えるかの差なのである。

新型コロナウイルスが猛威を奮って早2年が経とうとしている中、大衆としては最早怒りとは違う慣れ、つまりは順応と言えば聞こえは良いがそれはつまり諦念の感情である。そんな中で前進的思考を持つのはあるいは楽観的とも非現実的とも思える。「人間は考える葦である」と言ったのはパスカルであったが、考え、立つことを辞めないからこそ人間は人間足りうるのである。それすらも短絡的思考なのかもしれないが、前進を辞めてしまうことは頽廃こそすれ、進歩することは無い。現状を打開した後に訪れる「福音」にも近いなにかに、想いを馳せずにはいられない、それ程までに現状世界は止まりかけていて、行き詰まりかけている。そして、このドンヨリと停滞する空気感のようなものを打破するには、同じだけの何かが無いといけない。その事象が何か、それは後世の人間と神のみぞ知ると言ったところか。

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