リアル・ネット麻雀におけるイカサマとは
とうとう麻雀の汚点とも言えるこの部分に手をつけることになってしまった...。
前回最早音楽の話を始めた時でさえ思いついてはいたのだが、イカサマは麻雀の外道であり、玄人の隆盛と反比例して競技人口が削られていた時代があった以上、それはこの分野の職業従事者として是認することはできない。
だが、同時に一人の人間としてそこに美学を感じることもある。漫画「哲也」において房州が坊や哲にその技を教え込むことに人生の終盤を尽くしたのも、一個人がその腕に磨きをかけた技術を赤の他人に教授するというある種不利益な点も含め、人生哲学の尺度から考えると非常に趣深い。今回はそんな麻雀におけるイカサマの話である。なお、私はイカサマを奨励するわけでもなければ、黙認するわけでも当然ない。ルールとは別に、そういう技がある、という認識をしていただければ幸いである。
イカサマと言えば、皆様は何を思い浮かべるであろうか。名前が挙がる代名詞としては「燕返し」があるだろうか。一応説明すると、これは山を積む際に任意の完成形を下山に入れておいて、他家が配牌を取って理牌しているタイミングなどで手牌を下山と入れ替えるというアクロバティックな技である。現在麻雀でこれはイカサマ技の名称のようになっているが、元々は麻雀の役の名前である。相手の立直宣言牌で和了ると成立する役がこの「本来の麻雀における燕返し」である。しかし、この役が他の古役同様に衰退する中で、それっぽいイカサマ技が出来たことでこの名前はそちらに受け継がれることとなったのである。どちらも、その鋭い剣技で相手の太刀筋を受け返す佐々木小次郎の技の、鋭いカウンターを彷彿とさせる。ただ、この技は全自動卓が流行すると同時にその意味を為さなくなった。天和を積み込んでいるからこそこんなハイリスクな一撃必殺の色の強い技が活きるのであって、自動卓において4向聴の配牌をもらった際にこれを使っても、積み込んでない以上はその意味は薄いし何ならさらに悪くなる可能性さえ孕んでいる。使われなくなるのは時代だろうか。
比較的容易に使えるイカサマとしてはブッコ抜きがある。これは別名左手芸とも呼ばれるように、他家が自摸る際などの死角を利用して、左手に手牌から任意の数牌を握りこみ自山の端に積み込み、その分自山から引いてくると言う技である。配牌取得時のみならず、任意のタイミングで任意の何牌か入れ替えることができる点でリスクとリターンのバランスがとてもいいイカサマである。自動卓になり引いてくる牌は積み込んだ牌では無くなったが、現在でも使える数少ない技である。しかも現行犯で捕まえるには手首を掴むなどが考えられるが、それも山ごと崩してしまえば証明さえ難しく、最悪掴んだ側が暴力行為で罰せられる可能性さえある。単独で現在でも出来る技の筆頭格ではあるが、山に牌を送るのが先なら少牌、山から持ってくるのが先なら多牌のタイミングが発生するのでそこで指摘しておけば和了られる心配は無くなる。
複数人で行う技ならエレベーターが効率が良いかもしれない。上家と下家が協力して任意の牌を交換するというだけの技である。卓内にいる他家からは見えない卓の下で受け渡される以上その指摘できるタイミングはかなり限られる。が、卓外から見れば分かりやすいことこの上無い技であり、そもそも漫画や実写でのそれは卓外からの視線と言うメタ要素が除外されることで成立しているに等しい。しかもそれをするには相方とカミシモに座らなければならず、それも警戒される一因となり得る点ではある。これを逆手に取ったのが、漫画「HERO-逆境の闘牌-」で中田・大柳のコンビが使うフライング・パイという技である。これは卓の下からノールックで牌を投げることで、物理的に接触不可な対面での牌交換を可能にした超絶技巧である。しまいには別卓での闘牌中でもノールックでこれを行うとかもう人間の技では無い気もするが...。
他にも元禄積み(千鳥積み)やドラ爆弾など、多くのイカサマが生まれ、自動卓の隆盛と共に滅亡したのである。だが、何もイカサマは全自動卓では起こせないわけではないし、全自動卓用のイカサマが無い訳でもない。
全自動卓はその攪拌性能がよくウィークポイントとして突かれる。現在ではその性能は黎明期に比べて大きく進歩したと言われるし、積み込み口が1つから4つになったのも以前書いた。が、その投入タイミングをずらせば、当然先に入れた牌から積まれる以上は一定の効果を出すことが可能だし、3・5・7牌だけ極端に後から入れてしまえば、それらは固まって積まれることで手牌における順子構成に支障をきたすことになる(意図的な対子場の構築)。
あるいは、自動配牌の自動卓はそのプロセスが多い分シャッフル性能が甘いと言われるし、極端な話、客がいない間に次の局の手牌部に任意の牌を積み込むことができるという大きな問題点がある(自動卓を導入した雀荘がしょっぱちに天和国士無双が出たので手積みに戻したという伝説的な話もあり、これは自動配牌の卓での話と言われる)。これらは所謂全自動卓の積み込みと言われる行為であるが、これらはその行為が主に卓内部にて行われる為に指摘するのは困難である。
これらリアル麻雀における積み込みに嫌気がさして、ネット麻雀に走るって?いや、ネット麻雀にもイカサマの介入する余地は大きくある。と言うよりネット麻雀においては運営者側が意図的にそうしていると言った方が正しいかもしれない。
持ち点が多いと急に配牌とツモが悪くなり、持ち点が少ないと急に配牌とツモが寄りだす、所謂「連勝補正」「負け補正」と言うシステムが搭載されているネット麻雀は少なくない。あるいは、課金するとツモが良くなるというのを謳っているゲームもある。これらは、それをハナから主張しているならそれありきで楽しんでいる以上何も意見は無いが、問題はこれらが水面下で行われた場合に確認することが困難を極める点にある。
私が思うにネット麻雀の本質的な問題点は、山をシャッフルするプログラム(仮にAとする)と、サイコロの出目をランダムで決めるプログラム(同Bとする)が別個のプログラムである保証が無い部分にある。
どういうこと?と思うかもしれないが、つまりAのシャッフルの結果サイコロ6が出ると西家に地和が入るとしても、Bが独立試行で目を決める以上そこに関連性は無いことになる。が、それらが同一のプログラムの連続施行によって行われるとすれば、その目は任意の和了りからの逆算によって導き出されていることになり、これは対局者が行為の主体にいないだけの積み込みとグラサイみたいなものである。すなわち、積み込みなどによって生み出される人為的な役満などを防止するための緩衝材であるサイコロの存在価値が、同じくイカサマ自体を防止し得るネット麻雀の存在によって形骸化してしまうという究極の矛盾が起こっていることになる。それってそんなに重要?と思う人は当然いるだろうが、偶然性と、それに伴う公平性を保つためにはこのAとBは必ず独立させなければならないものである。これを連続試行させるというのは、極端な話サイコロを振った時点で『東ニ局、あなたの和了りではありません』と言われても構わないと言っているようなものである。勿論、鳴きや立直の有無でツモや打牌は変わる以上100%そうとは言い切れないのだが、それは元々そういうゲームシステムだから発生している要因である。となると、この場合のAやBは対局者と言う存在を除外した山積みないしサイコロの出目を独立試行で産生するべきであり、点棒が無い人間に有効な配牌とツモが行くように山を組み、なおかつそれに基づいて任意のサイコロの目を出すというのは闘牌の公平性も無ければ麻雀と言うゲームの偶然性すらも否定してしまうシステム構築なのである。
パチンコやスロットにおいても大当たりを抽選するメイン基板と、演出などを選択するサブ基板の2種が存在するが、この2つはメインからサブへの情報伝達(当たったか外れたか)をすることはあっても、その逆は絶対にない。メインとサブが双方向通信をしてしまうと、この演出が出たから大当たりに書き換えと言った現象が発生し得る間隙を生み出すことになり、入賞時あるいはレバーオンによっての抽選と言う偶然性による大当たりと言うシステムを崩壊させることにつながりかねないからである。あるいは野球で投手は打者に投げる球種を教えることは無いし、サッカーでキーパーに蹴るコースを教えるキッカーはいない。2チームの公平性と試合結果の偶然性を尊重すれば当然そうなるのは自明の理である。では、ネット麻雀も運の要素が絡むからこそそれは尊重すべきであり、トップ目に天和が入ろうがラス目がボロ配牌だろうが、それを人為的に除外してはならないのではなかろうか。
勿論これはそういう風に人為的にプログラムを構築すれば、の話であって、完全ランダムを標榜しているネット麻雀も存在している。が、3向聴くらいのリアルな配牌に7巡くらいの無駄ヅモなんてリアルな麻雀はある意味退屈なもんだし、逆に配牌グチャグチャな状態から自模る度に筒子が伸びて最後は九蓮なんてことになったらワクワクするのは当然の心理かもしれない。この考えが一定数ある以上は、そういった極端な積み込みが入るネット麻雀も淘汰されることは無いだろう。悲しいがこれが事実である。
中国の孔子の言葉に次のようなものがある。曰く
「学びて思わざればすなわち罔(くら)し、思いて学ばざればすなわち殆(あやう)し」
これは学んでも考えなければ理解することはできないし、考えても学びがなければ独断が過ぎて危険であるという意味である。
ネット麻雀は偏るというのは簡単だし、リアル麻雀にしても積み込みだイカサマだと言うのは簡単である。しかし、その要因と解決策を探る術を考えなければ、あるいはこのコラムさえ無駄なのかもしれないが。