マナーは人が創るモノ

2021年12月16日

はやいもので2021年ももう残すところ3週間を切ってしまった。

今年は何をしたかと個人的に回顧してみると、その大半は前年と大差なく外出という外出も特にせずに家に引きこもっていた毎日の連続に反吐の1つ2つも出るものではあるが、あるいはコロナ禍における一般大衆の生活が万人と言わずとも大半がそういった風にシフトチェンジしていることを考えると、人間然とした生活を送ることができた1年にも感謝の情は湧きこそすれ、別段憎悪のそれは無いとも言える。あるいはそうして人間の生活は慢性的な「慣れ」の連続で形成されていくのであろうか。

さて、麻雀におけるマナーについては以前述べたが、根本論としてそのマナーとは人間のそうった連続行動によって形成された一定の線引きである。身も蓋もないことを言えばそもそも世の中を俯瞰して見れば大半の物事は人間によって構築されたものの集合体なのではあるが、マナーもその中の1つである。

とはいえ、ルールが明文化されているが故にそれ自体は守るのが当然と認識されているのとは裏腹に、マナー自体は一定の逸脱をする者の存在が許容され続けている。この点からしてマナーの存在自体はプレイヤー各自の信義則に基づく善意で行われている行為に他ならない。

根本論としてマナーが良いだの悪いだのといった認識自体がルールの線引きに対して怠慢なそれであり、「遊びの幅」をもたせているのは行為を受容する観測者側であることになる。ルールは遵守するのが当然と認識されているのに対してマナーの善悪はすなわち受け取る側の匙加減に帰結している。

とはいえそれ自体が構築されるまでには紡がれてきた先例の連続があり、その結果生まれたコレはOK・コレはNGという価値観の中で、『とはいえ明確に罰則を決めるまではしなくていいか』という緩い遊びの幅の中で生存し現在まで続くのがマナーのマナーたる所以であろうか。

実際問題、発声無しの仕掛けが当然のように許容されてきた雀荘においてはそれがマナーの悪い行為だと映ることは殆ど無いだろうし、逆にそれらを明確にルールに近い位置で禁止と淘汰を繰り返してきた高尚な雀荘においてはあくまでマナーが悪いと映ることだろう。

ルールやマナーといった線引きはゲストの立ち位置から考えると確かに「既に存在していた」存在であって、それを守るか守らないかの選択肢しか与えられていないように思考が落着するように思える。が、しかし、ゲストとてそのルールやマナーの構築者の1人に成り得ることを忘れてはならない。1人が始めたが故に蔓延し、慢性的に飽和する例は枚挙に暇がない。不毛な更地は将来的には機能を持った都市にも成り得るし、延々と広がる山林は将来的には人獣の寄り付かない不法投棄の場にも成り得るのである。

固定されその物差しに誤差が出にくいルールとは違い、もともとの概念として「遊び」が持たされている分マナーの物差しはブレやすいのである。それをあくまで受容するだけに帰着するのも当然選択肢の1つではあるが、その維持伝承も我々の責務であり、多数のそれによって健全な場としての雀荘が維持管理されるのは想像に難くない。マナーは我々人が創るモノなのである。

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