J-POPにおける流行とは
おいおい麻雀関係ないのかと思った人には申し訳ない。
もちろん麻雀の話なんていくらでもあるのだろうしそう思うが、ふと思いつく話が今の所無いので、とりあえずJ-POPの話でもしようかなと思い立った。麻雀の話も思いついたら勿論するのでご安心下さい。箸休めなんで、麻雀以外にあってもいいじゃんね♪
にしても何故J-POPに話が行くのか、となるだろうが、麻雀以外で私に深く掘り下げられる話なんてパチンコか競艇か音楽くらいしかないのだ。前2つはやりながら疑問に思ったことを調べて学んだのだが、音楽に関しては物心つく前から親にやらせてもらってたし、その道に進もうとさえ考えていたこともあって、掘り下げるのは私の中で比較的容易い。と、同時にこの中では最も「健全」なジャンルであるだろう。尤も、前2つの話もいずれまたすることになるのだろうが←
さて、とはいえ音楽なんて専門用語のオンパレードになるだろうし、ほとんど意味が分からないかもしれないが、なるだけ分かりやすく説明しようとは思うのでご了承を。
少し前に「コード進行」と言う単語がネット界隈で流行したことがある。芸人やyoutuberもこぞって『日本の流行曲はカノン進行と王道進行ばっかり!」と取り上げたものだ。恐らく専門職の人間は当然ながら、私でさえ思ったのは『何を今さら』と言う話である。12音のルート音に対してメジャースケールとマイナースケールの2パターン、すなわち24パターンの基本形の組み合わせのパターンを変化させて、そこにリードメロディを乗せているのだから、わざわざバックスの複雑化したコード進行を分解してしまえば法則性の1つや2つくらい見つかるのは当然の話で、そんなことを騒ぐのはネット弁慶か、にわかの「自称専門家」くらいのものである。こんなのは別に驚きでも何でもなくて「偶数は2で割れる」と言ってるのと同じくらいの話である。
カノン進行は調べれば投げるくらい情報はあるだろうが、あえて説明するならI-V-VI-III-IV-I-IV-Vの進行である。はい分からんとなった人、大丈夫、分かる人の方が少ない。Cメジャー(以降メジャーは空欄、マイナーはmと表記)で説明するなら、C-G-Am-Em-F-C-F-Gの進行である。これは、バロック時代にヨハン・パッヘルベルが作曲した「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」の前半カノン部分で登場するコード進行であり、その歴史は長い。日本では卒業式や結婚式で流れることが多いだろうか。
王道進行も同じく説明するならIV-V-IIIm-VImの進行である。CならF-G-Em-Amの進行である。J-POPの進行でこの進行は確かに本当によく見る気がするし、グッとくる進行である。
ただ、大半の人間はメロディに注目することこそあれ、コード進行に注目することはそうない。それに対して『この曲もこの曲もカノン進行』と言う取り上げ方をするのはいただけない。それだとまるでJ-POPがパクリだらけのような印象を受ける人が多いはずだ。
ただ、音楽にはカデンツの法則と言うものが存在する。安易に〇〇の法則とか言ってしまえばもうこんがらがってワケガワカラナイヨとなりそうなので、すごく簡単に説明すると「始まった曲が終わりに向かおうとする力に関する法則」である。音楽の授業で起立・礼・着席の時のピアノ伴奏を思い出していただきたいのだが、あの伴奏は非常に清々しくないだろうか。音楽的に解説するとあの伴奏におけるC-G7-Cの進行のG7は緊張、次のCが弛緩を感じさせる展開であって(音楽理論ではコード進行はよく展開と呼ばれる)、G7の構成音であるシとファがそれ2音だと究極に不快な不協和音であり(この2音はトライトーン、つまり三全音である。増4度または減5度の関係にあり、その不協関係は「音楽の悪魔」と呼ばれる)、そこからCを構成するドとミ、すなわち長三度への抜けが不安の解消を印象付ける展開なのだ(これを音楽理論では「解決(リゾルブ)」と言う)。つまり、不安なな展開の後には必ずそれを解消する展開が来るということなのだ。
しかし、これによって音楽の構成上「緊張と弛緩を繰り返すならば」次の展開が予測できてしまう。そこで「代理和音(サブコード)」が登場する。最も安定するI度をトニック、緊張をもたらす代わりにI度との関係で調性を確定させるV度をドミナント、V度に展開した場合に緊張を持たせるIV度をサブドミナントと言うが、この時、Cで説明すると、II度、つまりDmは凡そIV度のFの代理和音として用いられる。VI度のAmもI度のCの代理和音として用いられる。言うならばバリエーションである。つまり、簡単に言うならFの代わりにDmを使ってもいいし、Cの代わりにAmを使ってもいいということだ。これによってその展開の幅は増加する。このバリエーションを基礎まで分解したらカノン進行や王道進行に「行きつくこともある」と言う話なのだ。そうじゃない曲も勿論あるのだから、この詭弁は片腹痛い。
USENから流れてくるJ-POPを聴いていると、やはりカノン進行の曲は一発で気づく。あいみょんなんて定番の進行のるつぼである。私はそれが悪いとも思わないが。けれど、例えばこれを書いている時にも流れているofficial髭男dismのPretenderを見ると、そのサビは光るものがある。[A♭|E♭/G-C7|Fm|E♭m7-A♭|C♯7|C7-Fm|B♭m|E♭-E♭7](耳で聴きとったので正確には違うかもしれないので悪しからず)と流れる展開は、手数の多い藤原の音楽センスを感じさせる。まぁこれもネット弁慶からすればカノン進行と分析させそうな構成ではあるのだが。この構成力の高さが受けているのか、あるいはカノン進行の魔力で売れているのか。それは私には分かりかねるし、それはまた別の話である。ただ、カノン進行の曲を羅列する情報源のほとんどは、その類似性を示すことこそあれ、相違性を示すことは殆どない。ましてや展開をカノン進行から外そうとしている創意工夫の跡を称賛していることなど皆無だ。
音楽は麻雀と似ている。あるいは何事もそうかもしれない。「氷山の一角」と言う言葉は大事件や問題が発生した時によく使われるが、そもそも人間の努力と言うもの自体が海面より下にあるのだ。周囲は海面に飛び出た氷山で評価するしかないのだからその大部分は水面下にあるのは当然ともいえる。麻雀においても和了りの形こそ全員が注目こそすれ、その過程が重んじられることは増えたとはいえ毎回ではない。打牌選択や長考や手牌の目的設定などの本体はブラックボックス化されているのだ。が、音楽ではその曲を分解すればある程度造詣のある人間なら意図や目的は察することができるし、麻雀においてもその選択過程で切り捨てられた「捨牌」がその意図を物語ることが多々ある。
成果主義が現代資本主義を成長させた側面は無論大きい。結果を出す人間が出さない人間より重用されるのも、維持しつつ成長させるという社会経済のシステム上当然の話であり理解できる。だが、その過程で結果さえ出せるのなら努力は不要とさえされ、排除されてきた。
麻雀も、和了りという成果を出すことが第一義的目的では当然あるのだが、たとえ和了れなかったとしてもその過程は捨牌と言う形で必ず万人の目に晒されるのだ。そういう意味で麻雀は、現代社会に対する強烈なアンチテーゼを主張し続けているのではないだろうか。