麻雀はどこまで全自動となり得るか

2020年05月29日

哲也-雀聖と呼ばれた男-がそもそも週刊少年マガジンで連載されてたのも冷静に考えればすごい話ではあるが、ああ言う手積み時代の麻雀マンガにはとてつもない魅力を感じる。

だが終戦後、日本の麻雀が大衆娯楽の地位を獲得するに至り、既に元号は昭和から平成を経て令和ももう2年目に入った。そして、その歴史の中でも全自動卓が使われるようになって久しい。今一度、当時の麻雀と今の麻雀のシステム面での進化・変化を考えてみたい。

終戦直後の麻雀の大半は座卓と同程度の、いわゆる普通の机で行われていた。当時の麻雀荘の一部はラシャを張った麻雀専用卓を設置し、これが現在の麻雀卓の始まりとされる。これらはもちろんただの専用の机である以上の機能は存在せず、せいぜい点棒を入れる引き出しが付いているくらいのものであった。しかし、手積みである以上は牌を覚えたり任意の牌を好きな位置に積み込んだり、極端な話それらをすり替えるなどの行為は当然行われるようになり、玄人(マンガでよく言われるバイニン)の天下がそこにはあった。

1972年にマグジャン・あるいはオートジャンと呼ばれる卓が開発されたが、これらは牌に磁石を内蔵することにより、卓のスイッチを入れると自動で牌が裏返ると言う仕様のもの(磁力とは別に卓を振動させることで牌がひっくり返る)で、牌を裏返すのが自動化されたのみで山積みは相変わらず手動であった。しかも、手積みに比べて牌が重くなったため、若干便利ではあるが持ち心地などに違和感を感じる打ち手も多かった。

転機が訪れたのは1976年。当時ミシン用の部品を開発していた東和製作所によって全自動麻雀卓「パイセッター」が開発される。これは山積みも全自動化された初の麻雀卓で、このパイセッターから全自動卓の歴史が始まったとされる。尤も、牌は1セットの使いまわしであり、一局終わるたびに流して積まれるのを待つと言う現在では考えにくいシステムであった。が、玄人が跳梁跋扈していた時代の中では、一般層からすれば異常な速さで和了られるよりはということで広く受け入れられた。ただし、この時点では点棒表示はまだ存在せず、自己申告による確認を必要とした。点棒表示が自動卓の機能として搭載されるのはICチップなどの電子部品の小型化・精密化を待つこととなる。

そして21世紀、全自動配牌が業界に旋風を巻き起こすわけである(厳密に言えば自動配牌の麻雀卓自体は80年代に配牌式のマグジャンが発売されたのだが、セットに通常以上に時間がかかるため受け入れられなかった)。


さて、現在の麻雀卓において不要なものとは何だろうか。答えはサイコロである。かつて山が手積み・配牌は手動・サイコロは手振りの頃から考えると、山は自動で積まれ、配牌すら自動で配られるようになった。サイコロは現在振るわけでもなくボタンを押すことで回転するか、そもそもデジタル表示化されている。オカルトな人間である私に言わせれば、最早流れやツキの要素は排除されている。カジノのカードゲームにおいては十分にデックが切られている前提で上から配られるし、切られたカードの何番目から手札を配り始めることもない(もちろん、そう言う場もあるかもしれないが、そうする明確な理由に科学的な根拠は存在しえない)。とすると、サイコロで開門位置を決める現在のルールは複雑なだけではないだろうか。配牌が手動にせよ親山の右から順番に取っていけば済む話である。もちろんこれは攪拌能力が高ければの話だ。全自動卓の積み込み口が1つだった頃には任意の牌を任意の位置に送ることも、容易ではないにせよ出来ないわけではなかった。が、しかし現在の麻雀卓の主流は吸い込み口4つだし攪拌も必要な量される。

となるとサイコロの存在意義は緩衝材の側面だけなのだ。もし天和や、そこまで行かないにせよ早い巡目の役満などに放銃した人が、ちゃんとシャッフルされていないとクレームをつけるのは簡単だが、そこに「この配牌とツモはサイコロの出目による偶然性の産物」の要素を付加することで、そのクレームを一定量軽減することができる。その一点に尽きるのだ。


私はオカルトな人間である。意味のない偶然の連続性に意図を見出したがる属性の人間である。しかし、あくまでそれが無意味であることは自覚し自嘲すらしている。ならばこそ、今後さらなる自動化が進む未来を想像すると、そこには希望が広がっているように思える。配牌も立直後のツモ切りも自動化してしまえば、これこそ万人の望んだスピーディな進行であり、三味線や嘘が飛び交うわけでもない対局がある。全員が平等な前提は担保されるべきであり、不公平に利害が発生するような前提は唾棄されるべきなのである。

と言うのはある種の皮肉である。これではAIと変わらないし、人間味が無さすぎる。対局すら自動化されてしまうのはオーバーだとしても、少しずつ、しかし確実に先人がやっていたことは自動化されていっている。現実問題として重要なのは中庸である。つまりは、どこまでを自動にし、どこからは手動でやるのが良いか。極端な話、全て手動だとしてもやりたい人は存在するし、どこまでも自動化してほしい人も一定数いるだろう。しかし、そこには主体としての「プレイヤー」は存在し得るのか。パチンコ業界においてハンドルを固定して遊技するのは「入賞口を各人の技術力(高さ・強さなど)において狙うことで玉を増やすという遊技において、その技術力の差が発生しない遊技方法を取ると、ただのヒキの勝負になってしまう」と言うべんちゃらなお題目で禁止されている。最早技術力の差を競うゲーム性では無くなっているとは思うが、ある種納得のいく部分もある。麻雀においても同じことで、全員が自動配牌自動ツモ自動牌効率計算自動打牌自動立直自動和了(つまりはオートプレイ)にまでなってしまったとして、そこにその遊技を楽しむ主体としてのプレイヤーは生存できるか。私は否定する。それは麻雀の対人性が失われるとともに、麻雀の本質である読み「合い」の点が大きく削がれることに他ならない。AI対AIの戦いになるのは「進化」であると言われようとも、人間がそこに参加していない点で主体性の面で大きく後退していることでいかない。


手間暇の簡略化と満足度合いはトレードオフである。カップラーメンは短時間で手軽に食べられることがその趣旨であるし、お店は時間がかかる分満足度の高い商品が得られる(本来はそうあるべきであり、不味い店やサービスの悪い店が実際存在するのはまた別の話)。同じボードゲームの多ジャンルに目を向けると、将棋やチェス、リバーシなどではプロがAIに破られるというのも珍しい話ではなくなった。しかし、あくまでデータから最善手を打つだけのAIよりは、敗れる人間に愛着がわくのが私たちである。それは、そこに試行錯誤の跡が見て取れるかと言う部分が大きい。将棋の羽生善治かつてこう言った。

「私たち棋士の直面している違和感は、人工知能の思考がブラックボックスになっていることです。膨大な情報をどのように処理して、その結論に至ったのかはわかりません。社会が人工知能を受容していく中で、このブラックボックスの存在は大きな問題となる可能性があると思います」

麻雀の本質は結果と、そこまでの過程を把握し理解する部分にある。何故染め手を作ったか、何故ベタオリになったか、なぜ放銃したか。その意図を時にトコトン長考し、時に他家に話せるのが、私の思う麻雀の麻雀たる重要なファクターであるのだ。羽生の言葉から汲み取るならば、結論―麻雀で言う打牌―までの解釈が人間にはあり、AIには無い(と言うよりそこが人間に分かる形で明文化されない)。ここが全自動になる時が、果たして来るのだろうか。それは誰にも分からない。100年前の人間が、全自動卓を想像し得なかったように。

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