麻雀の格言は的を射ているか
麻雀が中国で生まれ、日本に伝来してから長い月日が経った。その中で多くの格言めいた言葉が発生したが、中には以前取り上げた早い立直は14索のように理論的ではないものや、何故かと聞かれれば分からないが正しいものが一定数存在する。
今回はそう言ったものを掘り下げていく。
「親の連荘南家の責任」
根本論として麻雀は親の方が和了りやすいゲームとされる。136牌の牌から配牌を取った時にそのまま行けば親と南家が18巡、西家と北家には17巡のツモ番が与えられる。それに加えてツモ順がある以上、東家→南家→西家→北家の順に和了りやすいとされている。なら、そもそも和了りやすい東家の連荘が何故南家の責任になるのか。この格言はそもそも南家が邪魔をしないから親の連荘が起こり得るとを言っている。つまり、南家が圧をかける立直や鳴きや染め手をしない以上はその上家である親は易々と打牌できるし和了れるということである。圧迫をかける意味では西家も北家も同質ではあるが、南家は親の打牌を吃できる点でより圧がかけられるという点で責められているのである。
「下り碰は見逃せ」
これはある意味古い格言ではあるが、言いたいこととしては、麻雀において他家のツモ番を飛ばして手を進めることは大きなアドバンテージとなり得る。しかし下り碰(上家の切った牌を碰すること)は他家のツモ番を飛ばせず利が少ないので、序盤だったり、鳴く牌が中張牌であるなら鳴くよりツモで手を伸ばせということ。
「金持ち喧嘩せず」
これもよく聞くが、別にトップ目が前に出るなと言っている訳ではない。これの骨子は負けるかもしれないリスクをわざわざ背負いにいくな、ということである。つまり、トップ目で序盤に片張で曲げるのも良いが、そのせいで負けるリスクを考えると、わざわざ戦う必要の無い所で喧嘩をするなということである。
「二嵌の渡りは残せ」
間三間の形(26や48など)は、面子がまとまってないのであれば、外側を切るのでは無く残した方が良いという格言。これは両側の間一間の牌を引いた際に二嵌の形となるためである。
「七五捨てに三六の落とし穴」
格言....と言うか最早牌理として普通にあると思うが、まぁ何て言えばいいのか、これは格言と言うよりは間1間は危ないと言う話。
「飛び対子は中を切れ」
これは理論的な話を分かりやすく説明している点で名格言であると言える。例えば、関連牌が切られていない状況において224466と持っていたとする。これらから1牌落とす場合に2を切ると受け入れは346の3種8牌、6を落とした場合も同様に245の3種8牌で、4を落とした場合には2356の4種16牌が受け入れ枚数となる。中を落とした場合の受け入れ枚数は単純に倍であり、困ったら中を切るのが正着となりやすいと言える。ただし、これらの関連牌が場に何枚も捨てられている場合はこの限りではない。
「人の嫌がる三面張」
3面張は確かに放銃したら嫌だし、この格言分かる....と思う人も多いだろうが、この格言の言う3面張はピアノ待ち3面張(23456など)の形ではなく煙突待ち(34555西西など)のことである。単純な両面で読まれていてももう1点の待ちが盲点となっ出易い為に、これが人の嫌がる=作れるならこの待ちが有利という格言。
「片張ツモなら即立直」
.....格言とは何だったかな。私はオカルトな人間だとは以前言ったし、言いたいことは分かる。「ここ入ったなら立直や!」と言われるお客様にも多数出会ってきた。本質は勢い芸なので、あまり気にしないように。
「好牌先打」
こうはいせんだ、あるいはハオパイシェンターと読む。これは自分にとって有効な牌=好牌は相手にとってもすべからく有効牌であり得るので、不必要に残すより切ったほうが守備の面で守りやすい、ということ。
「順時勿喜、逆時勿愁」
シュンシーウーシー、ニェーシーウーシューと読む。これは私が最も好きな中国の麻雀の格言である。和訳するなら、調子が良いからって浮かれるな、調子が悪いからって黄昏れるなと言ったところか。麻雀に限らず人生にもつながる深い名言だと思う。
「見和即和」
チェンホーシーホーと読む。出た時が和了り時、つまり見逃しはするなという格言。まぁ場況次第とは思うが、見逃しをするということは条件があるということで、皆さんはその結果和了れなかったからと言って見逃したから...と言い訳をするのは止めよう!
とまぁ、格言にも当たり外れがあるのは否めない。根本論として、道があるから人が歩くのではなく、人が歩くから道は出来るものなのである。
本質は格言があるからそうするのではなく、多くの人がそうしてきたからそういう格言が成立したという点を大事にしたい。格言に麻雀を打たされるのではなく、私たちの打ち方が新たな格言を生み出せるのを楽しみにしている。