物事においてヒトは何を到達点に置くのか
いやぁ、編集画面を開くのもなかなかに久しぶりである。しばらくの間は公私ともにバタついていた部分もあって、完全に放置状態であったが、一応サイト関係の運営を担っている以上、人並み以上に重いこの腰も上げねばならまいということで、久々の投稿である。
まぁそんなことはどうでもいいのだ。このサイト自体が箸休めの域を出ていないのに更にその箸休めとなると冗長性に過ぎるし、「御託はいいから」というものだ。
さて、雀荘のメンバーになった当初から薄々は思い続けていたことではあるが、そもそもお客様は何を目的に打つのか。言い換えれば、人間が麻雀に興じる「目的」とは何なのだろうか。これを言うと身も蓋も無いことを、とまた思われるのかもしれない。が、麻雀をする人間の究極は「勝つこと」と言われればもちろんそれは理想ではあるが、根本的に客と胴元の勝負ではない以上、客同士で勝敗は必ずつく上、そこにアトランダムに構築される自摸牌の順序が存在するが故に実力をどれだけ上達させても必勝とはいかない。現実的に、麻雀打ちに行こうと考える人間の如何ほどが、それを勝つことと同義に考えているのだろうか。
【麻雀がそうかどうかは置いといて】、ギャンブルの本質は「供されたその物質的財物を労せず得られる」と言う点にある、【麻雀がそうかどうかは置いといて】。
とは言え、その労せずの概念は漠然としている。労働の対価として得られる所得は正当なものであるという価値観は一般的だが、その「労働」の概念でさえ未だに「(肉体)労働」の思想を孕んだものであることは言うに難くない。例えば如何に精神的苦痛を伴うとて、コールセンターの人間は『座って電話してるだけだろ』と言うレッテルを張られるし、YouTuberにしても『動画作って見てもらうだけだろ』と言う認識から完全には脱却しきれてはいない。「汗をかかなければ働いたことにはならない」と言う考え方は愈々現代民主主義の思想と言うには前時代的に思えてならないが、その価値観もそう遠くない未来にはパラダイムシフトするのだろうと楽観的に思える。となると現場での作業従事者は労働者だろうが、そこから上の職、指示者や設計者は凡そ肉体労働よりは頭脳労働の色を呈してくる。とは言えこれも一般的には労働である。
と言うことから、麻雀遊技者は考えて任意の牌を選択し、その結果に関与することができるという点で、一般的なギャンブルとは区別されるのである。パチンコにおいても、遊技者がハンドルをコインやカードなどで固定して遊技することを禁止している最も大きな理由はこれで、「遊技者が打ち出される玉の強さを当人の力量において任意に調整することで、入賞口へ入る玉の数が上下する」と言う点で遊技機と言うお題目が担保されているのであって、ハンドルを固定するということはつまり技術の優劣による入賞数の差を限りなく無くす=遊技機ではなく賭博機を操作しているという扱いになるため禁止されているのである。まぁこの理論で行けば、トランプ賭博は場に晒されたカードをカウンティング(場に出ているカードから山札に残ったカードの種類に一定の見当をつけること)をすることで賭博では無くなることになるし、ギャンブルと一括りにされるモノの大半は往々にして仕手が何らかの考慮類推を加えるものなのであって、この理論は突き詰めれば破綻しているような気もしないではないが。
中国麻雀の本質は以前言った通り、着卓者のある種協力によってより綺麗な美しい手を作ることにあると言ってもいい。それに対して日本の麻雀は、結論から言えば個々人が他者より「先」に和了ることが唯一にして無二の部分であり、その繰り返しで点棒を増やして終えた者が「勝者」、そうでない者が「敗者」と言うゲームであるということである。任意の手を組んで良いと言うことと任意のパーツを引いて良いと言うことは同様ではなく、前者にこそ組み易さや和了り易さを考慮できるかと言う点で実力差は如実に出得るが、後者に努力や目に見える意味での実力差は出し得ない。その部分をして俗に「麻雀は実力3運7のゲーム」と言われるのだが、とすると後者での差を明確に個々人で磨くことが不可能であるが故に前者を育てるのが上達への道とされる。なるほど、確かに前者を重要視した人間はつまりは雀荘に「仕事」をしに来ているのだ。それで生計が立つのであればそれこそ重畳であるし、それこそYouTuberよろしく「好きなことで生きていく」の図式が成立するわけだ。
なればこそ、前者を怠った人間は如何様なロジックを持って雀荘へ通うのか。
例えばその理由の一つに社交場としての雀荘に来ているというのがあるだろうか。私自身は溢れんばかりの大金を得たことは未だに無いが、例えばそんな大金を持った人にとって巷の雀荘で失う金なんてさして痛手ではないだろうからその目的は金を稼ぐことではあるまいし、コミュニケーションの場として雀荘に足が向くのは、ある種贅沢な悩みと言えるだろう。つまりは「(金銭的な意味で)勝っても負けても痛くない」のである。
とは言え、そこまで金銭的な余裕が無かったとして、雀荘へ油を売りにくる人は実際一定数いる。その大半は別の予定までの時間を消化しに来店したり、ホントに何もすることが無くて来るなどまぁそういった理由のことが多い。「勝てるとは思っていないが、まぁ痛くはない」といった価値観だろうか。
最も重要なのは勝てると思って来る人である。実力を磨くことを怠った人間に限った話で言えば、短期的に勝ちが続くことは確率上あり得るが、最後まで勝ったままゴールすることは稀である(とは言えそもそもそのゴールをどこに取るかは個々人によりけりなのだが)。「勝てると思って来ているから、負けたら暫く来なくなる」ということである。
勝てると思って来るものの来たらボコボコになる、というのは傍からすれば飯がウマい程度の話だろうが、雀荘の発展の根幹は実際この層にかかっているのだから頭の痛い部分ではある。腕に自信のある層が入れ替わり立ち替わりする雀荘はある意味そこから常連になる可能性のある人が選り取り見取りなのだから未来は明るいし、ここが減少しても一定数の人が通い続けてくれるのならば、営業は続けることができるのだ。しかしながら、社交場としての雀荘に通ってくれる人はそうはいかない。そこがコミュニケーションの場として成立しているうちは自らのルーティンワークの中に雀荘通いを加えてくれるだろうが、場が乱れることがあるとその足が遠のくのも必然と言える。常連が遠のき出した店舗は、雀荘に限らず必衰と言えるだろう。そのどちらが重要かと言われれば非常に難しいが、春秋左氏伝から引用するなら、飛び込みの減少は言わば皮膚の病、常連の減少は言わば膏肓の病なのである。
話が逸れたが、人間誰しも丸くなるとはよく言ったもので、勝てると思って飛び込んだ店で、実力不足を思い知らされて常連になるみたいなのは兵家の常である。勝ちたい勝ちたいと思って最初はいたが、最終的には空気感だとか他の客と仲良くなって生まれる雰囲気だとかでその目的そのものは少しずつ失われていくのだろう。しかしこれは私自身もそうであるように、結局は「敗者の弁」であり、つまり敗ける人間の理屈なのであろう。実力を楯に打つ、人間は世紀末の鉄火場でこそ多数いたが、少しずつ淘汰されて今に至る。少しずつ煙たがられ、妬み嫉みに晒されて、世の中がマイルドになることで、何かに負けるその度に失う名誉だとかプライドだとかそういったものを皆で分散負担するようになることで、私達はその痛みを和らげることに執着してきた。しかしながら、それと同時に私達は少しずつ何かを失っているのかもしれない。