時勢の変化に雀荘はついていけるのか

2021年02月01日

2021年も始まって早1月が経った。昨年から引き続き新型コロナは猛威を振るっており、その対策は予断を許さない状況である。

ましてや、世間は再び自粛営業の流れにある。結局のところほかの業種はマスク等の着用をお願いすればそれをするしないは個々人の良心によりけりではあるが、飲食業界はマスクの着脱が前提条件であるからこそのこの風当たりの強さなのであろうか。とはいえ実際のところ、何かしらの物事を自分には関係ないと締め出しに協力しようものなら、例えばその矛先が自らに向いた際に同じ目に遭うのも当然自明の理であるからして、自粛はさも当然であるかの如く拳を突き上げる現在の論調には否定的にならざるを得ない。よく言う「人にされて嫌なことは人にするな」の理論である。

とはいえ、解決方法が誰に分かるでもなく、かといって御上は何らかの解決を求められるのだ。締め付けをせずにその感染が拡大しようものなら民衆はバッシングを浴びせるだろうし、締め付けて生活が困窮しようものならそれもまた同様に然り。身も蓋も無いことを言ってしまえば、"That is only god knows."「神のみぞ知る」と言うしかない。それを言っちゃあ終いだよって話ではあるが。

まぁ別に明後日の方向を眺めていたら現状が打開できるわけでもないし、ましてや夢や妄想に花を咲かせてもしょうがないので、現実的なことを考えよう。根本論として、麻雀業界はこれまで度々触れたように割と危機的状況にある。つい先日も角界から時津風親方が興行中に雀荘に出入りしていたことが問題となったが、世間的な雀荘がMリーグよろしく、頽廃的なイメージから脱却できたとしても、その本質は変わりない。「複数の人間が同一の物体と接触することが成立しうる」以上はコロナ禍においては敬遠される場所であることは間違いない。店が営業していてもそのイメージは払拭できるものではないし、いくら「当店では定期的な消毒を心がけています!」と謳った雀荘でも、1局ごとに洗牌や卓掃を行うことは現実的ではない以上は他者と濃厚接触の条件を満たす可能性は大いにあるのである。

そこに拍車をかけて自粛要請が飛んできたりする。これに関しては、どんな職種であれ一貫した自粛対応になる以上は「こんなご時世だからしょうがない」と高邁な考えで達観出来るならある種幸せである。が、現実問題現代社会に生活の場を置く以上は必要経費は必ず存在する。それは労働者にせよ、雇用者にせよである。ざっくばらんに言うなら、労働者は自粛中も家賃や電気代や食費などの必須科目に金を払わなければならないし、その間の収入補償が行われる職種が必ずしも大多数とは言えないはずだ。それらの経費支出は同じ人間である以上雇用者にも圧し掛かるものではあるが、雇用者には同時に店舗等の契約に基づく出費がある。電気料金や水道料金にしても、使わない分は無論減少するが固定費用はそうはいかない。それをどう捻出するかは大きな課題である。捻出が可能な店舗はまだいいとして、それが不可能な店舗のその後は悲愴なものである。閉業するか自転車操業的に金策に走るしかないのだから。ましてや飲食業は現代社会においてのインフラを担っているが、雀荘は社会的な位置づけから言えば「不要不急の産業」の域すら出ることすら出来ていないのだ。その予後を重畳と見ることは難しいだろう。

理知的に推考しても状況は悲惨である。となれば、感情的に「補償しろ」の声を上げる数が増え続けるのも納得できなくはない。が、それはある種の氷山の一角でしかない。真に問題を抱えているのは、むしろ声を上げない側に内在しているのではなかろうか。彼らは声を出すでもなく、ただ明日の見えない時間を消費していくしかやりようすらないのである。

年老いた象、という話がある。象は自らの体重を支える筋肉が老化とともに衰えると、一度座り込んでしまえば最後、再度立ち上がることはできなくなる。ましてやある程度の群れ社会でこそあれ、象は食物を貯蔵する器官も、そもそも貯蔵する習性もない以上、座りきってしまった老象に残されたのは、死を待つのみとなる。そのため、年老いた象は、肉体的にどれだけ疲れていても、どれだけ座り込みたくても、精神的な「諦め」を迎えない限り、その起立を止めることは無いという。

今この瞬間声を上げる人間、あるいは声を上げない人間。そのどちらもが肉体的には既に限界を迎えて、あるいはそれすら超えてなお活動を続けているのかもしれない。彼らがその精神的「軸」すら消失してしまったとき、この国あるいは世界は成長を止めて、座り込むのかもしれない。

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう