「マナー」という名のボーダーライン

2020年06月11日

麻雀というゲームは相手の考えを限られた情報から推理し、考察することでその摸打の進行状況や目的、待ちを読むゲームである。そのため、発言に嘘が混ざると途端に興が冷める。張ってないと言えば和了り牌は当然出るだろうし、降りたと言えば警戒はされなくなる。

だが、そこまでして和了りを拾いたいかと言われると、私はそこには否定的だ。勿論そうまでしてでも拾わなければいけない和了りもあるかもしれないし、和了らなければ死んでしまう極限条件なら、何をしてでも和了りこそ正義というのが人間の性なのだろう。が、それでも全員が嘘をつかないという前提条件としての信義則のようなもので、我々はその不安定ながらも美しい均衡を保っている。それがマナーと言うものだ。

三味線もマナー違反の筆頭格でよく挙げられる。嘘は言ってないが相手に一定の誘導バイアスをかける点で、それが忌み嫌われるのは読み合いのゲームにおいては当然だろう。が、同時にそこにある種の「美しさ」というものも私は感じずにはいられないのだ。

例えば、立直してから2筒から9筒までを引いてはツモ切り『筒子しか引かない...』と言って、実は1筒の双碰待ち。これは、嘘を言っているわけではないのだ。全員に明示されている情報として、筒子しか引いていないことを発言しただけで、イコール通ってない1筒が通るとは一言も言っていない。けれど他家からしてみれば、待ちに関わる所は言わないのが普通だから、それを言うということは1筒は通るはずというバイアスがかかる。これは先入観ではある。しかしそもそも論で言えば、全員が分かっていることをわざわざ発言する必要があるかと言われれば不必要ではあるし、それを言うことで他家からの出和了りを狙うという姿勢が、姑息だと言われればぐうの音も出ない。が、この発言を問題提起する上でのウィークポイントは、そこに悪意があるかどうかが当人以外の誰にも証明できない点にある。

こんな風に、グレーな言動は慎むというのが「マナー」の一言によって担保されているのが麻雀である。この主張を圧縮すると「人にされて嫌なことはするな」と言う小学校で言われそうな個々人に依存する命題に行きつく。つまり逆説を取るなら「嫌でなければしていい」と言うことになる。これはルールとの最大の違いである。つまり、ルールは禁止事項を提示することでゲストの言動を「制限」しているが、マナーの本質は『されたら嫌でしょ?だからしないでください』という自然主義的誤謬の延長線上に位置する以上、嫌じゃないと言われてしまったら止められない『忖度」と言えば近いだろうか。

こう言ってしまうと、どこに美しさがあるのかとはなりそうなものだが、それは「如何に嘘をつかずに和了り牌を出やすくできるか」と言う技術力だと私は思う(無論三味線はもめ事の原因になるのでやってはならないし、やるべきではないとは思う。あくまで概念的な話)。

ルールで人間の行動を制限するのは簡単である。スタンフォード監獄実験のように、ルールに縛られた人間が役割でさえ全うし始めれば、人間はいとも簡単にまとまりがつく。実際、そうしてしまえば当然理想的な環境が整うだろうし、それを理解したうえでホストとゲストが存在するのであれば現実的な目標とも思える。が、ルールによって制限することで、元々その一線を越えなかった人はともかく、そこを越えたり越えなかったりで立ち回る人間は大きく委縮することとなる。本来グレーなのだから、委縮もへったくれもないとも思うが、現実問題その点については多くの人間がその白と黒の間を知らず知らずのうちに行き来しているに他ならない。完全に黒い人間は出入り禁止になったりして淘汰されいていくし、完全に白い人間は上客にこそなるだろうがその絶対数は総じて少ない。実際の所大多数の人間は1%から99%の不完全な白黒を行き来しているわけだ。となると、ゲストの動きをホストが押さえつけるようなルールを多数作るよりは、馴染んでいくうちにその店々のやり方、やっていいことダメなことを咀嚼し理解してもらうことこそがサービス業の本質であり本義であるし、肩身の狭くない伸び伸びとした空間維持につながると考える。


中国の後漢書には、「涇以渭濁(涇は渭を以て濁る)」という四字熟語がある(区別が明らかなことを意味する)。中国には渭水(いすい)と涇水(けいすい)という川が陝西省にあり、渭水は常に澄んでおり、涇水は常に濁っている。この二川が交わる下流では、その清濁がより明らかになるということから、どう見ても濁っている涇水も、澄んでいる渭水が比較対象として存在するから濁っていると認識できるのであり、涇水が唯一ならその清濁は判断しかねるということである。

麻雀においても、大半が性善説や信義則に基づいて摸打を繰り返すなら、その分イリーガルな打ち手は明確に映えるので、本来人間が改善し進化成長する万物の霊長であるならこそ、淘汰されていくはずである。それが店のスタッフなどによってこそ発生すれど、環境や空気感から自然発生的に起こりえないのは、大多数の人間がそれと五十歩百歩の位置関係に滞在しているからに他ならないのである。つまりは、そこを淘汰し始れば明日は我が身となり得るのを、それこそ感覚的に感知しているからに他ならないのである。


そういったことすら、たった一言の「マナー」と言う言葉によって構築された感覚によるものでしかないのだ。つまり「他人にマナー云々言えるほど、自分も良くは無いしな」という感覚こそが、マナーと言う概念の本質をとらえているように思えてならない。あるいは、それを越えてはならないボーダーラインと捉え始めることこそが、対人ゲームを行う上でのクリーン化の第一歩になると私は思うのである。

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