「オカルト」の言霊

2020年06月15日

タイトルにも書いたが、私は根本的にオカルトという言葉が嫌いだ。デジタルの対義語はアナログだろうし、針の付いた時計をオカルト時計と呼んでいる人を見たことがない。とはいえ所謂世間一般の呼び名として、ここでも遺憾ながらオカルトと呼称することとする。

デジタル思考が本質的に確率論に根ざした理論武装をするのに対して、オカルト思考はその背景に流れや経験則に基づく感覚論があるという違いしかない。本質的には源流の理論を異にする2つの流派であるというだけの話だ。だが、デジタルという名前にはコンピューティックなイメージが伴い、オカルトという名前には眉唾なイメージが伴う。それが私がオカルトという呼称を嫌う最も大きな理由ではあるのだが、確率統計も結局はその偏差に洩れたパターンは存在するし、デジタル思考が完全であるという風潮にも少なからずの穴は存在する。が、万人が同じ地雷原を歩くとして、感覚で飛び越えていくのよりは数値化した理論に基づいて歩いて行った方が新兵は危機回避率が高まるのは間違いない。何故その牌を選んだのかと言う問いに対して「牌効率上最も好形変化するから」と説明されるのと「感覚」の一言で片づけられるのと、どちらが納得できるかは自明の理である。


現実問題多くの射幸性が含まれる物事にはこの両論が存在する。パチンコにおいて回る方が大当たり確率に対しての投資金額が少なくて済むので回る台を打つという「ボーダー理論」には、台の好調不調を見抜いて回すという「波理論」がその対抗に存在する。あるいは公営ギャンブルで言えば的中確率が最も高いと言われる競艇にしても、最も的中率の高いインから買う「本命党」に対して、そろそろ外が来ると言ってアウトから買う「穴党」はいる。あるいは競馬や競輪にしても、明らかな本命をあえて外して買う人間は存在する。

本質として、本命をあえて買わない人間の思想の根本は変動オッズが低いことに起因すると言われている。「来ないとは思ってないが買えない」のである。もう1つは、他に影響を受けていない場合がある。オッズは結局人気投票の結果であって=的中率が高いことの証明ではない。自分が能力値や諸々のコンディションから判断した買い目が自分の本線であって、それが客観的な本線とたまたま異なっているだけだという話なのである。

が、麻雀は違う。オカルト派は和了りたくない訳では無いし、そこに両面なら安く地獄単騎なら高い配当が付いてもない。では(私も含めた)オカルト派である理由とはなんだろうか。


一般的にオカルト派の主張は眉唾物と思われている。調子が上がってきたから愚形でも立直だとか、調子が悪いから三面張でも和了れないだとか、その思想の根本は独立した思考の不純混合体である。と言うのは、好調不調と麻雀における和了り易さの関係性を説明されることはなく、「AだからB」の論法だけで押しきろうとする。何故調子が良いと和了り易くなるのかを理路整然と証明できる人間は皆無であろう。あるいは、お天道様が見てるからだとか、さらにファンタスティックな飛躍を見せるかもしれない。話に花が咲くならあるいはいいのかもしれないが、本格的に理解が追い付かなくなるのは想像に難くない。

じゃあ逆にデジタル派はどうだろうか。その根本は確率に基づいた理論武装であって、牌効率通りに打牌を行えば聴牌しやすいだとか、つまりは「AならばBの可能性が高い」と言う話である。デジタル思考はどれだけ突き詰めても100%が存在しない。じゃあオカルトにはあるかと言えばオカルトの私が言うのも何だがあんなものは所詮思い込みなので100%や200%の信頼度を持ったりするものだ。

そう考えるとどちらがいいかは甲乙つけがたいのも事実だ。恐らくほとんどの場合何百局何十半荘と打つ前提で考えるなら確率を追い求めていった方がその成績は安定しやすいのはほぼ間違いないとは思うが、1日1局しか打たないのならばその確率が収束するのは何万局後になるか分かったものじゃない。

と言うか私がオカルト派なのも込みでここからは感情的な話にもなるが、過程を飽和するまで充足させたところで結果が伴わない場合があるのであれば、いっそ楽しんで打ちたいではある。別にデジタル派が楽しんでないとは言わないが、デジタル派はこじらせると理論に逃げる癖がある人がどうしても増える。「なぜ俺の三面張がその片張に負けるんだ!」と怒っている人は大抵こじらせている。麻雀はサイの目と打ち手の差こそあれ、山牌が出た時点で結果は決まっているに等しいので、そうなると返す言葉は「そこに牌があったから」とジョージ・マロリーみたいなことを言うしかなくなる。

あるいは、その一局が人生の最終局となるなら、そこで確率を追えるのか。私は残念ながら追えないし、その重荷も負えない。最後の一局を確率に基づいた結果聴牌しなかったときに「確率だからしょうがないな」とは思えない人種なのであって、ある種仕方のない話だ。


私の中で常に思うことがある。オカルトとの呼び名を与えた人間は限りなくオカルトを嫌悪していたことであろう。他の考え方を許容する余裕がそこにはなかったのかもしれない。が、そのどちらかが正しくどちらが間違っていると結論を急ごうとするのは短絡的である。これらを極限まで分離するなら、デジタルは未来の確率収束を考えて打牌するのであり、オカルトは現在を後悔をしないように打牌するのである。つまり私が思うにこの2つは結論、

「デジタルは未来を考える流派」

「オカルトは現在を楽しむ流派」

なのである。


私はデジタルに憧れる。その思想は未来志向であり、今を生きるのに精一杯の私にはとてつもなく崇高であり高邁に見える。しかしこの2流派は共に原義は一致しているのではなかろうか。それは「過去は過去である」と言うことだろうか。

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