米津玄師に見えるコード進行と世界観

2020年09月09日

はい中国麻雀シリーズちゃうんかい、と。それは私自身思ってしまう所ではあるが、ふと思いついたのでまたしても音楽の話題。言うなれば「箸休めの箸休め」である。

表題の米津玄師であるが、私と同郷の今や徳島―と言うより日本―を代表するに等しいアーティストである。その米津の出す曲出す曲ヒットチャートを賑わせるヒットメーカーと言っていい。今回はその米津の曲と詩から、その世界観を僭越ながら分析してみたい。


米津の曲に見て取れるコード進行と言えば私が第一に浮かべるのはVIm-IV-V7-Iの「6-4-5-1進行」であろうか(この進行を聞いて小室哲哉やGReeeeNを連想する人間は造詣が深い。今度一緒に話でもしたいものだ)。「LOSER」や「アイネクライネ」、「馬と鹿」、新譜で言えば「感電」にも使われているしハチ時代なら「砂の惑星」もそうだ。前述のとおり小室哲哉が多用したコードで、「小室進行」の異名もあるコードだ。この進行について敢えて考察するなら、トニックであるVImから同じトニックであるIへの進行であるから展開として安定感がある、という点であろうか。ふと考えると、この頭のVImをIに置き換えると完全カデンツの進行となることが分かる。カデンツは自然に流れになるように構成された和音進行であるから、小室進行もそれに準じた安定感があって然るべき、と言ったところか。実際、「残酷な天使のテーゼ」や「フライングゲット」「Get Wild」や「紅蓮の弓矢」など、カラオケでも未だに上位に入る盛り上がる曲には小室進行の曲も少なからず見受けられる。そもそも、米津の曲には短調が多い。と言うか長調の曲を挙げてみろと言われると即答しかねるレベルで無い(いや、無論皆無ではないが...)。

曲で言えば転調のイメージもある。「砂の惑星」ではB♭mからサビでCmに転調しているし「LOSER」ではF♯mからサビでE♭mに、「Lemon」ではA♭mからCメロでFmになる。1つめに関しては当人の米津名義ではない初期作と言うこともあってその転調の特徴は他と異なるが(変ロ短調からハ短調への転調はこの2つが関係調ではない以上Bメロ「応えてくれ僕に」の「く」(E♭)を利用してそこから「に」を変ロ短調の構成音に無いDに持ってくることでCmへのアプローチを試みている)、「LOSER」と「Lemon」の転調には共通性が見られる。最近のJ-POPには最早長短の判断の難しい曲が増えた気がするが、例えば「LOSER」のサビのE♭mをF♯Mだと解釈した場合そのサビ前とサビ以後の調性の関係は音楽理論的には「同主調転調」になる。「Lemon」においてもCメロのFmをA♭Mと解釈すれば同じく「同主調転調」であることになる。ただし、私にはこれらを長調と認識するに足りる部分を見て取れることは出来ない(長短の解釈が昨今の曲で難化しているのを踏まえたとしても)。
そこで、私なりの解釈をするなら、「LOSER」においてBメロ最後のC♯はF♯mの5度でありE♭mの減7度(つまりは平行調F♯の5度)である。そして「Lemon」のCメロ頭のA♭はA♭mの1度でありFmの3度(つまりは平行調A♭の1度)であるのだ(これは分かる人には当たり前の話をしているんだが)。さて、では「砂の惑星」をもう一度見てみると「く」がE♭だとは先程言ったが、このE♭はB♭mの4度でありCmの3度(つまりは平行調E♭の1度)となっている。ここにおいて先程の2曲はこの「砂の惑星」の転調体系と異なっていると言うのが分かるはずだ(これも分かる人からすれば3度下に転調する曲と2度上に転調する曲だから当然だろとはなるだろうが)。 
米津の音楽性はここに多様さを見て取れる。一言で「転調」と言ってしまえば、素人目には『米津は転調するヤツ』のレッテルを貼られるだけになるかもしれないが、理論的にはそれらは似て非なるものであるのだ。そこは据えておきたい。


さて、歌詞に目を向けるとその世界観も多様だ。
「アイネクライネ」と言うタイトルからして既に誰かしらは振り向きそうなものだが、その歌詞解釈は難解だ。私自身は産まれてくる子と母の話だと解釈していたのだが、友人から『いや恋愛ソングだろ』と言われればそんな気もした。 
「LOSER」においては ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスとニルヴァーナのカート・コバーンが登場し、彼らを「昔の人よ」と一蹴している。あるいは、一蹴しているのはそれらに共鳴し同調し、中指を立ててイキがっている自分だろうか。徳島のアイデンティティである阿波踊りの一節「踊る阿呆に見る阿呆」が引用されているのも心をくすぐる。 
 「メトロノーム」においてはこんな一節がある。刻んでいた互いのテンポは同じでいたのに、いつしか少しずつズレ始めていた、時間が経つほど離れていくのを止められなくて。メトロノームはネジ巻き式が主流で(まぁ2020年現在は分からないが。米津は私と2つ違いなので恐らく同じものを考えていると信じたいが...)、ネジを巻かないと少しずつテンポは遅れだし、そしていつか止まる。普通に読めば何かのタイミングですれ違いが生じたと思えるが、それを知っていれば自分がネジを巻くのを怠ったが故に、と言う暗喩が読み取れる。
 「感電」においては肺に睡蓮遠くにサイレン響き合う境界線という一節がある。パッと見語感合わせのようにも見えるがこの「 肺に睡蓮」というのはボリス・ヴィアンの「うたかたの日々(日々の泡)」に出てくるクロエの病気である(ちなみにこのクロエという名前は20世紀最大のジャズミュージシャン、デューク・エリントンの曲から取られている。ボリス自身エリントンの大ファンで、「うたかたの日々」の頭にはエリントン以外いらない的なことまで書いてた気がする)。こう言うリズミカルな節回しの一部分にさえ引用が見て取れるのは面白い。
  「カムパネルラ」にも触れようとも思ったが、銀河鉄道の夜に関してはその内容の大半を年甲斐もなく失念してしまったので申し訳無いが割愛(ボリスを憶えてて宮沢賢治を忘れるとはこれ如何に。いや「うたかたの日々」はスゲー衝撃作ですよ、フランスっぽいオシャレさにあふれてるし、悲しい。銀河鉄道の夜は、こう、砂糖入り牛乳が美味しそうだとか、そういうのは憶えてるけど...←)。


余談ではあるが「感電」はそのリズムがスウィングしている(タカタカではなくタッカタッカのリズムになっている)。 スウィングはジャズのリズムである。そしてその曲内に引用されるボリス、彼が好んで聴いたエリントン、彼はジャズミュージシャンである。あるいは連想ゲームかもしれない。あるいは視聴者の深読みしすぎかもしれない。あるいは...。

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